俳優、コメンテーター、映画祭の主宰まで多方面で活躍する別所哲也。“人と運に恵まれていた”と半生を振り返る彼の言葉からは、運をも味方に付けるバイタリティある人柄が伝わってくる。50代、60代を謳歌するためのヒントがたくさん詰まったインタビュー。
中学、高校の6年間はバレーボール漬けの日々
ターニングポイントは3つあって、まず大学を卒業した翌年にハリウッド映画『クライシス2050』のオーディションに合格してアメリカに渡ったとき。そして、22年続いているアカデミー賞公認の国際短編映画祭を始めたことと、30代半ばから10年演じた『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャン役に巡り合ったことですね。
――別所さんは、銀行員の父と美容院を営む母と祖母、そして3歳下と8歳下の妹がいる一家の長男として静岡県島田市に生まれた。春の高校バレーに憧れて、中学校でバレーボール部に入部。高校もバレーを続け、国体の強化選手にも選ばれるほどに。そんなバレー漬けの生活を6年間続けた結果、勉強のほうは急降下、志望する大学への進学など夢のまた夢であった。
高校は藤枝東高校に進学して、バレー部に入部しました。3年の夏前に引退するまでは部活中心の生活でしたね。ただ、2年生の春休みの強化合宿で、1カ月間伊豆で県内から集められた25人でバレー漬けにされたことで自分の実力を思い知らされました。
高3の夏に部活から解放されたものの、バレー三昧でしたから成績はずっと360人中287番とか、進学校の下のほうにいたので先生たちには見向きもされなかった。3年の夏休みに親に頼み込んで夏期講習に行かせてもらったんです。2週間、朝から晩まで勉強漬けです。
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大学卒業からわずか2年後、ハリウッド映画出演が決定
――その甲斐あって、慶應義塾大学法学部に見事合格。ここで英語劇のサークルに入ったことが俳優を目指すきっかけになった。そして、大学4年のときにミュージカル『ファンタスティックス』のオーディションで主役を射止める。卒業後は演劇学校に通い、1年後に受けた日米合作映画『クライシス2050』のオーディションで演技力と英語力を評価され、ハリウッドデビューを果たすことが決定した。1988年、23歳で渡米し、撮影地のロサンゼルスで夢だった海外生活を満喫することに。
大学では英語劇のサークルに入ったのですが、ここで芝居に出会って面白いと思ってしまった。また、英語劇でずっとお世話になっていた作詞家で演出家の奈良橋陽子さんの下には時任三郎さんや中村雅俊さんも出入りしていて彼女とフランクに話していた。
最終的には俳優を目指そうと決めて3年の冬休みに実家に帰ったときに「俺は就職しない。俳優になろうと思っている」と言ったんです。ところが、家族全員が「はあ!?」って。実際、最初は奈良橋さんにも反対されたのですが、結局「1年間だけ一緒にプロでやっていけるか試してみましょう」と言ってもらえて、彼女が主宰している英語学校のワークショップに参加したりして僕の芸能界人生が始まるわけです。
ラッキーなことに社会人2年目に受けた『クライシス2050』のオーディションに合格して準備期間も含めてアメリカで1年半過ごすことになったんです。ただ、向こうでは打ちのめされましたね。それまで自信のあった英語が全く通じなかったり、演技にしても本場の人のすごさに圧倒されて対人恐怖症にもなりました。
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30代で2つの大きなターニングポイントを迎える
――映画が封切られたのは1990年夏、24歳のときで、帰国後は「ハリウッド帰り」の称号を追い風に一躍人気俳優の仲間入りを果たす。撮影現場と自宅の往復を繰り返すうちに、自分の中身が空っぽになっていることに危機感を覚え、もう一度原点に戻るべく半年間の休暇を取って渡米。そこでライフワークとなるショートフィルムに出会う。帰国後は日本でショートフィルムの映画祭を開くことに奔走。そして、1999年より主宰する日本初の国際短編映画祭『ショートショートフィルムフェスティバル』は毎年規模を拡大し、今年で22年目を迎えた。
当時のマネージャーには「戻って来ても席があるとは思わないで」と言われましたが、思い切ってアメリカに行ったことで新しい自分が生まれたし、新しい出会いもあった。やっぱり退路を断つことまでやらないと次にやるべきことが見えてこないのだな、と。
僕の3つ目のターニングポイントである、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャン役との出会いは30代後半で受けたオーディションです。
僕はすごく人や運に恵まれていて、このときのオーディションを受けられたのもまさに運。それに、ジャン・バルジャンってどんなにやりたくても20代じゃできないんですね。僕が30代後半だったから10年間続けてこられたわけで、俳優がそのキャラクターに出会えるのって4年に一度のオリンピックと一緒で巡り合わせなんです。
50代、60代も常識にとらわれず挑戦する
――今年55歳。俳優として活躍する一方、情報番組のコメンテーター、事務所の社長や企業の社外取締役なども務め、国や行政の委員会や観光大使としての責務も担っている。コロナ禍で舞台は2つキャンセルとなったが、今は11月の舞台『ELF The Musical』に向けて全力投球中だ。
先輩たちを見ていると60、70代でお亡くなりになったり、フェードアウトしていく人、一方ますます意気盛んではつらつとしている人に分かれていきますね。この間、桃井かおりお姉さまがロサンゼルスから僕の朝のラジオ番組に出てくれたんですけど、ああいう破天荒で型破りな人は面白いですね。彼女は「ダメ、世の中にそんなに寄り添っちゃ。逆、行こうよ、逆。右って言ったら左に行かなきゃ」というタイプ。僕は当たり前に右に行くほうなんだけど、「いや、俺は左に行ってみよう、というのが役者なんだよ」ということを教えてくれた。
同世代にメッセージを送るとすれば、僕らが20代、30代のときの50代、60代の人生設計がもう僕らには当てはまらないってこと。仕事にしても待っていてはダメで、僕はどんどん自分で作っていっています。これからも既存の常識にとらわれずに、いろんなことに挑戦していきたいですね。
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PROFILE/別所哲也
1965年、静岡県出身。90年、ハリウッドデビュー。米国映画俳優組合(SAG)メンバーとなる。日本発の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル」を主宰。内閣府「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に選出。
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取材・文/大西展子
撮影/鍋島徳恭
スタイリング/千葉 良
ヘア&メイク/森川英展(NOV)
(MonoMaster 2020年12月号)
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WEB編集/FASHION BOX