今年73歳を迎えた高田純次さん。今でもなお、人気番組『じゅん散歩』のロケで1日1万5000歩ほど歩くこともあるというアクティブさ。若さの秘訣は歩くことにあると見た!
≪目次≫
●大学受験全滅は人生で初めての大きな挫折(高田純次)
●柄本明にベンガル 昔の仲間との再会が縁で(高田純次)
●人気番組への出演で生計を立てられるように(高田純次)
●先のことはわからないから「今を生きる」(高田純次)
●PROFILE/高田純次
大学受験全滅は人生で初めての大きな挫折(高田純次)
やっぱり最初のターニングポイントと言えば、2度の大学受験で受けた10校が全滅だったってこと。それはずっとトラウマだったよね。
――高田さんは、会社員の父と専業主婦の母の間の2人兄弟の次男として調布市(東京都)に生まれた。しかし、兄を肺炎で亡くし、実母も4歳のときに病死したため、物心がついたときには父の再婚相手と祖母の4人暮らしだった。
地元の小中学校に通っていたけど、俺らは団塊世代で中学は1クラス50人の5クラスで人数が多かったのよ。聖人君子じゃないけど、俺は真面目で、成績も学年で常に10番以内の優等生。いずれ東大か、日本の首相になるかって、いや、ホントに。
高校は都立の府中高校に受かったんだから、親孝行だったんじゃないかな。成績は250人中200番ぐらいでヒドかった。高校は勉強が難しくなるからね、っていう問題じゃないか(笑)。
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柄本明にベンガル 昔の仲間との再会が縁で(高田純次)
――大学受験にはことごとく失敗。結局、浪人の末、東京デザイナー学院に入学する。そして卒業後、日の丸自動車教習所でカメラマンのアルバイトをしている頃、自由劇場の芝居を見て衝撃を受け、気がつけば同劇団の第一期研究生となっていたという。勢子夫人との出会いもちょうどこの頃だ。
専門学校を卒業してすぐに就職するのもイヤで日の丸自動車教習所で写真撮ったり、コピー店でバイトしたりしているうちに芝居の照明をやっている人や監督と出会って、「芝居のポスターを描いてみないか」と誘われたんです。その後、照明の人に六本木に面白い劇団があるぞと言われて観に行ったのが自由劇場の『マクベス』という芝居です。うわあ、面白い、こんな世界があるのかと思って、自由劇場の研究生に応募して合格です。でも、1年で研究生をクビになった。
イッセー尾形と劇団を旗揚げしたものの、うまくいかなくて10カ月で解散。演劇では食べていけないことが身に沁みて、とりあえず食うために宝石鑑定師の資格を取って、26歳で宝石会社に入社したんです。自分で言うのもなんだけど、実力も認められていたので、ここに勤め続けるのも悪くないなと思っていましたね。実際、2百万円ほど貯まったので、それを頭金にマンションを買うつもりだったんです。
ところが、会社勤めから3年経った8月だったかな。下請けの会社のバストの大きな女の子をやっつけようと思って、とりあえず新宿「ぼるが」って飲み屋に連れて行ったら、柄本(明)やベンガル、昔の仲間にバッタリ会ったんですよ。あいつらがまだ芝居の話で熱くなっているのを見て、ショックでね。今思うと、俺は挫折してサラリーマンになったけど、彼らはずっと芝居を続けていたってことに対する後ろめたさというか……。中途半端で辞めてしまっていたから、何かモヤモヤしたものがあったんだろな。12月にベンガル演出の舞台公演があるから、おまえも出演しないか、って電話がかかってきたときに、やっぱり芝居をやりたいと思って、会社を辞めて「東京乾電池」の公演の稽古に入ったんです。
カアちゃんは日舞の師範で、知り合いに誘われて日舞の舞台を観に行ったのがきっかけで付き合うようになりました。胸が大きくて、最初のデートのときにノーブラで来たんで、それで俺もやられちゃったのよ(笑)。同棲して29歳で長女ができて、ちょうど生活も安定していた30歳のときの長女の1歳の誕生日、9月25日に「一身上の都合で」って辞表を出してしまった。
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人気番組への出演で生計を立てられるように(高田純次)
――30歳で劇団「東京乾電池」に入団したものの、当時は売れず、妻子を養うためにバイトに明け暮れていた。しかし、33歳のとき、舞台を観に来たフジテレビのディレクターから声がかかり、『笑ってる場合ですよ!』で初めてレギュラー出演を果たす。その後、『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』と出演が続き、30代半ばぐらいからは何とか食べていけるようになった。なかでも、高田さんの名前を有名にしたのは1985年から11年間続いた『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)への出演だろう。
全国的に知られるようになったのは、『元気が出るテレビ!!』だけど、最初にテレビでレギュラーをもらえた『笑ってる場合ですよ!』は生きていく糧としては1つのターニングポイントだったよね。もし面白くなかったら替えられるから、もう必死だった。それを続けられたのはすごく自分の中では大きい。その間にドラマにも出させてもらったし。だから、フジテレビのディレクターやプロデューサー、北野武さんもそうだけど、人との出会いって本当にデカいよね。
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先のことはわからないから「今を生きる」(高田純次)
――「東京乾電池」から、厄年の42歳のときに独立。古希を過ぎてからも、“テキトー男”のキャラクターで、バラエティ、ドラマ、司会とマルチに活動をしている。
よく「高田さんみたいな人生って憧れます」とか言われるけど、俺の人生なんて哀しいよ。毎日枕濡らしながら寝ているんだから(笑)。飄々としているように見えるとしたら、却ってそれがキツい。俺の場合は全部中途半端で来ているから、もう年も年だからこのまま中途半端で行くしかないな、と。もう極めたいものもないから、たまに知ったかぶりをすりゃいいかなと思って。
やりたいこと? なんにもないね。今、73歳でしょ。もう80歳にならないことを願うしかないよね。やっぱり80歳、90歳ってなると高齢者感が強いじゃない。90歳で、バンバンカラオケ歌うわ、ビンビン下半身立てるわじゃ、ちょっと困るよね、周りが。ま、それも楽しいけど、やっぱり90の爺さんがそれじゃ怖いよ。俺が何かメッセージを送るとしたら、やっぱり「今を生きる」ということしかないんじゃないかな。先のことはわからないこの時代に、今を必死に生きてないと。
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PROFILE/高田純次
(たかだ・じゅんじ)
1947年、東京都出身。東京デザイナー学院を卒業後、ジュエリー会社のデザイナーとしてサラリーマンも経験。1977年、劇団「東京乾電池」に参加。以後、テレビ番組を中心に活躍。現在はテレビ朝日『じゅん散歩』に出演中。
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取材・文/大西展子
撮影/木村直軌
スタイリング・ヘア&メイク/鍋田由美
(MonoMaster 2020年10月号)
WEB編集/FASHION BOX
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