【鬼滅の刃】鬼舞辻無惨は平将門がモデル!? 鬼殺隊の出身地もヒントに![日本史学科教授 監修]

【鬼滅の刃】鬼舞辻無惨は平将門がモデル!? 鬼殺隊の出身地もヒントに![歴史学科教授 監修]

※本文には一部、ネタバレとなる箇所があります。ご了承ください

 

鬼舞辻無惨は誰なのか

大ヒット中のマンガ『鬼滅の刃』。家族を鬼に殺された少年・竈門炭治郎(かまど・たんじろう)が、鬼殺しを行う鬼殺隊(きさつたい)に入り、鬼と闘うストーリーだ。『鬼滅の刃』においてラスボス的存在といえるのが、鬼の始祖・鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)。色白のヤサ男風に描かれている彼だが、そのモデルは反乱を起こした武将・平将門だという説がある。日本史をもとに、検証していこう。

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平将門とは? 「新皇」を名乗った時代の抵抗者

『鬼滅の刃』には日本の古典や歴史をモチーフにした設定やストーリーが多くある。では、鬼の始祖であり、物語の最重要人物である鬼舞辻無惨のモデルは誰なのだろうか。

可能性があるのが、三大怨霊のひとりに数えられる平将門だ。桓武(かんむ)天皇の曽孫・高望(たかもち)王の孫として生まれた平将門は、若い頃に京に出たものの、ほどなく故郷に帰り、承平年間(931~938)には関東北東部一円の紛争で勝利をおさめ、武勇をとどろかせた。

天慶2年(939)、将門は国府の役人から追われた藤原玄明(はるあき)の助命のために国府へ出向いたが、折り合いがつかずに戦闘となり、国府側を打ち破った。そのまま下野国、続いて上野国に出兵し、3国の国府を掌握した。当時、地方に下ってきた役人の多くは、任務を怠り荒稼ぎと貯蓄に勤(いそ)しんでいた。こうした役人たちに反抗を示した将門は、武士や土豪、農民たちから支持された。そして、神託を受けた将門は「新皇」を名乗った。朝廷に対して公然と反乱を起こしたのである。これに驚いた朝廷は、藤原秀郷(ひでさと)や平貞盛(さだもり)たちに命じて追討させた。朝廷に抵抗する勢力は鬼とされたが、天皇と同格である「新皇」を名乗った者はいない。関東の革命家であり、朝廷が恐れた最強の鬼といえるだろう。

将門が天慶3年(940)に討たれると、その首は京で晒(さら)されたが、その後飛翔して江戸の街に舞い戻った。人々はその首を祀り、現在も大手町に将門塚(しょうもんづか)として残っている。それから約400年後の14世紀初頭に、天変地異や疫病が流行した。これらは将門の祟りとされたことから将門の神霊を慰霊し、さらに延慶2年(1309)、神田明神に奉祀したところ、疫病は収まったという。将門の怨霊も鬼と同様、疫病を引き起こしていたのである。

将門塚
将門塚

 

無限城は将門の首塚の地下にあった!?

鬼舞辻無惨のアジト・無限城は異空間に存在したが、無限城を操る上弦の肆・鳴女(なきめ)が滅したことによって崩壊、無惨と鬼殺隊たちは地上世界へと戻った(第183話)。しかし、その場所は産屋敷輝利哉(うぶやしき・きりや)の想定とは異なる市街地だった。3階建てほどの煉瓦(れんが)造りの建物が整然と並んでいる風景は当時の日本では珍しい。考えられる場所は大手町と丸の内だ。
大正時代の大手町は大蔵省や内務省があった官庁街で、第184話で描かれた地上への排出ポイントの奥には、大蔵省印刷局によく似た建物が見える。
当時の大蔵省印刷局は事業の拡張に伴い建物も増築され、現在の常盤橋公園から神田橋付近までに及ぶ広大な敷地を有していた。そして、大正時代に将門の首塚があったのが、まさに無惨と鬼殺隊たちが地上に戻ったポイントである大手町の大蔵省印刷局の敷地内だったのだ。

無惨は「始まりの呼吸」の剣士・継国縁壱(つぎくに・よりいち)との戦いで深傷を負って逃走し、ホームグラウンドへ戻って回復に努めた。将門もまた首を晒されながらも飛翔(逃亡)して関東へと帰ってきた点で一致する。

ちなみに鬼殺隊と無惨は戦闘しながら移動していくが、道の両側には3階建ての建物が並び、崩れた資材から煉瓦造りだったことがわかる。これは「一丁倫敦(いっちょうろんどん)」と呼ばれた3階建て煉瓦造りのオフィスが並んだ、大正時代の丸の内の風景と酷似している。このことから、排出ポイントの大手町から戦闘を重ねながら丸の内がある南へ移動していったと考えられる。

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炭治郎の出身地・雲取山に現れた平将門

平将門が鬼舞辻無惨のモデルと考えられる理由はほかにもある。『鬼滅の刃』第1話では、竈門炭治郎の家族が無惨によって惨殺され、禰豆子(ねずこ)が鬼にされるが、その舞台である雲取山に平将門の足跡があるのだ。
朝廷に反旗を翻した将門だったが、年が明けると兵たちは農作業のために国元へ帰っていった。軍勢が手薄になったところを藤原秀郷たちの追討軍によって追い込まれ、将門は雲取山へと逃げ延びたというのだ。雲取山にはこの時の将門の足跡が「将門迷走ルート」として残っている。将門の妻・紫の前が自害した場所、将門の7人の影武者のわら人形が岩に変化した場所、家臣の妻や姫99人が自害した場所などがある。

炭治郎以外の鬼殺隊の出身地を見てみよう。『鬼滅の刃公式ファンブック 鬼殺隊見聞録』(集英社)には、各キャラクターの出身地が紹介されているが、奇妙なことはすべて東京都(旧東京府)の出身であることだ。大きく2つのエリアに分けられる。ひとつが前述した炭治郎の出身地・雲取山をはじめとする東京西部の山岳地帯だ。ここには、悲鳴嶼行冥(ひめじま・ぎょうめい)(日の出山)、時透無一郎(ときとう・むいちろう)(景信山)、嘴平伊之助(はしびら・いのすけ)(大岳[おおたけ]山)の出身地があり、将門が逃走した雲取山を都心部からさえぎるように配置されている。
もうひとつが都心部だ。不死川実弥・玄弥(しなずがわ・さねみ・げんや)兄弟(中央区京橋)、栗花落(つゆり)カナヲ(墨田区本所)、胡蝶しのぶ(北区滝野川)、我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)(新宿区牛込)、冨岡義勇(中野区野方)、煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)(世田谷区桜新町)、甘露寺蜜璃(かんろじ・みつり)(港区麻布台)などの出身地があり、これらは首塚のある大手町(旧麹町区)をぐるりと囲むように配置されている。そして東京湾の海上には、伊黒小芭内(いぐろ・おばない)の出身地・八丈島がある。鬼殺隊の出身地が将門の由来地である雲取山と首塚に対する結界となっているのだ。

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(抜粋)

「鬼滅の暗号」解読の書

書籍『「鬼滅の暗号」解読の書』
監修:瀧音能之

 

監修者 プロフィール

瀧音能之(たきおと・よしゆき)

1953年生まれ。駒澤大学文学部歴史学科教授。著書・監修書に『カラー改訂版 忘れてしまった高校の日本史を復習する本』(KADOKAWA)、『図説 出雲の神々と古代日本の謎』(青春出版社)、別冊宝島『古代史再検証 蘇我氏とは何か』『日本の古代史 飛鳥の謎を旅する』『ビジュアル版 奈良1300年地図帳』『完全図解 日本の古代史』『完全図解 邪馬台国と卑弥呼』、TJ MOOK『最新学説で読み解く日本の古代史』(すべて宝島社)など多数。

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編集:青木 康(杜出版株式会社)
執筆協力:青木 康、常井宏平
編集協力:小野瑛里子、阪井日向子

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WEB編集:FASHION BOX

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