<大沢たかお・俳優デビュー25周年で思うこと>ようやく新しいスタートラインに

大沢たかおにインタビュー|『王様と私』に出演!俳優デビュー25周年で思うこと

(2020年5月19日 更新)

俳優デビュー25周年を迎えた大沢たかお。2019年はロンドンで上演されたミュージカル『王様と私』にも出演し、海外でも高い評価を得た。今なお挑戦し続ける氏に話を聞いた。

≪目次≫

 

「50歳を過ぎてから、やりたいことができるようになりました」(大沢たかお)

<シンドいときほど受け入れなきゃいけない>

大沢さんは、会社員の父親と専業主婦の母親の間に3人兄弟の末っ子として東京で生まれた。専修大学附属高等学校時代は、仲間とバンドを組み、ベースを担当。新宿や吉祥寺のライブハウスにも出演していたが、卒業と同時に解散。大学2年生のときに新宿でスカウトされ、モデルの仕事を開始。端正な顔立ちと動きのあるポージングが注目され、ファッション誌では欠かせない存在となる。しかし、モデルとしての人気を誇っていた25歳の頃にその仕事を辞め、何もしない1年間を過ごした。これが一つ目のターニングポイントだという。

モデルの仕事はすごく調子がよくて、海外ロケにも行かせてもらったし、新しい雑誌の仕事も舞い込んできました。でも、そのうち別に世界を目指すわけでもないのにこんな中途半端な気持ちのままモデルを続けてもなあ、と。次の道は見つかってなかったけど、とにかくゼロにならないと始まらないと思ったんですよね。

ただ、人間ずっと何もしていないと何かしたくなってくるから不思議ですね。そんなときに、モデル時代にお世話になった事務所の系列の芸能事務所のマネージャーから連絡が来たんですよ。誰からも見放されたと思っていた時期に声をかけてもらえたことが純粋にありがたかったし、嬉しくてね。その人に連れていかれたのがフジテレビの亀山(千広)プロデューサーで、会った途端、「君、面白いね」とか言われて、その場で台本を渡されたのがデビュー作の『君といた夏』です。

当時、モデル出身の俳優さんといえば、風間トオルさんとか阿部寛さん、加藤雅也さんがいたけど、僕らの世代は、むしろ俳優業には否定的だったんです、「モデルでいいじゃん」って感じで。そんな状況の中で俳優になるなんて言うと「何、おまえ。ダサ」みたいな感じだったし、僕自身、俳優になりたいなんて気持ちはゼロでした。俳優としての素養も何もないんですから、最初は大変でしたね。現場では誰も教えてくれなくて、いきなり「よーい、スタート!」みたいな感じだったので、どのタイミングで台詞を喋っていいのかもわからなかった。だから、すべて現場で学習していったんです。

僕は20年以上この世界で仕事をしてますけど、一切営業ってしたことなくて、まさに人との縁だけでやってきた。物事って自分のイメージしていることと違うライン、予期せぬことから意外と始まっていくんですよね。自分が思い描いていた夢なんて大したことないというか、自分じゃ理想だったはずのものから外れて初めて面白くなってきたりする。だって、自分が望んでいなかった世界でたくさんの人と一緒に仕事をしたり、笑ったり、一生懸命作ったりするという場面に出会うとは思ってもいなかったから。

だからといってこのまま俳優を続けたいとも思わなかったです。ただ、やるからには一生懸命やるしかないって、自分の持てる力をすべて出し切った。映画少年だったので、そういう意味では芝居をしたときに無限の引き出しがあることに気づくというか、どんどんアイデアが出てくるんです。自分に俳優が向いてるかどうかはわからなかったけど、ただ、ベストは尽くしたスタートでした。

<大沢たかお・俳優デビュー25周年で思うこと>ようやく新しいスタートラインに
出典: FASHION BOX
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<佐藤純彌監督と出会って心を打たれました>

そんな大沢さんのひたむきな姿勢と負けん気が制作者側にも届いたのだろう。同じチームから続けてオファーが来た。そして、その翌年には聴覚障害のある女性の恋人役を演じた『星の金貨』でブレイクを果たす。その後、ドキュメンタリー・ドラマ『劇的紀行 深夜特急』での経験が評価され、活躍の場を日本だけでなく世界に広げるも、2000年以降は映画の世界へと移行する。

30代はドンドン仕事が来て、先々のスケジュールまで埋まっていって映画も年間4、5本撮ってました。僕は結構しっかり考えて取り組みたいタイプだからすでに許容量はパンパンになってたんだけど、声をかけてもらえることがありがたくて何とかこなしていたんです。だけど、もうシンドいな、と。新しいことが自分の中から湧き出てこないというか、退屈な芝居しかできなくなってきたんです。これはマズイと思いながらも仕事は普通に続けていたのがよくなかった。

これが12年ぶりに来た2回目のターニングポイントで、そんな悶々としていた頃に出会ったのが映画『桜田門外ノ変』の佐藤純彌監督です。僕にとってはお祖父ちゃんぐらいの年齢で、重鎮なわけじゃないですか。なのに、ずっと敬語で何でも丁寧に話してくれる姿勢にホント、打たれて、こんな器の大きい人がいるんだ、こんなにピュアで一本映画を作ることにそこまで命を懸けてやっているってすごくいいなと思ったんですよね。それが38歳ぐらいのときだったけど、そこから少しブレイクを入れながら、この先どうしようかなあと思っていたら『JIN–仁–』というドラマの話が来たんです。テレビドラマを引退すると決めたのが32、33歳でしたけど、『JIN–仁–』のプロットが面白かったのと、石丸(彰彦)プロデューサーの熱意が嬉しくて、もう一度テレビドラマに戻ったんです。よし、ここからまた頑張ってやっていこう、と。

<つらいときこそチャンスだとわかった>

蜷川幸雄演出の舞台をはじめ、ミュージカルにも挑戦するなど舞台経験も多い。しかし、“ミュージカルの聖地”ロンドン・ウエストエンドで『王様と私』に自分が参加するとは思ってもいなかったという。そのきっかけとなったのは尊敬する先輩・渡辺謙さんだったとか。

僕はニューヨークに『王様と私』を観に行くぐらい謙さんの一ファンなので、単に舞台を観に行っただけだったんです。ところが、謙さんがいろんなスタッフを紹介してくれた後、「明日空いてる?」って。僕はフロリダに友達がいたんで、釣りをしに行くつもりだったんだけど、「いや、それよりもさ」みたいな感じで誘われて翌日行ったら、それがオーディションで、いろいろチェックされて。で、出ないかという話になったんだけど、NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』が始まったところで翌年の10月まで拘束されてたので、それは無理だったんです。

ところが、その3年後の夏にまた連絡が来たんです、「今度、ロンドンでやるキャストに」と。40代も後半になると、周りの友達、例えば、会社を経営している奴からすごく会社が大きくなったとかいう情報は耳に入るし、友達からも心配されて少し焦っていたんですね。なんだかうまく物事も進まなくて、これからの人生どうしようかなぁと考えあぐねていた、そんなときに『王様と私』のオファーが来たんです。

ただ、格式とか様式美とか、語学力にしろお客さんの見方のレベルがイギリスは極端に高いので僕なんか通用するわけないな、と。でも、そんな状況に飛び込むことでもしなきゃこの仕事をやってても面白くないじゃないですか。そんな危なっかしいことやっちゃって、というのを僕は楽しいと思うタイプだったので、『キングダム』を撮り終えた次の日にはロンドンへ向かってました。

行ってビックリですよ、外国人ばっかりだったから。すぐテーブルミーティングで全キャストがプロデューサーやディレクターたちと役やストーリーについてのディスカッションを始めなきゃいけなかったんですが、これがすごくしんどくて、頭が混乱しましたね。あまりにも様式が違いすぎて、スケジュールの発表の仕方にしても自分で探すわけです。

とにかくこの舞台が俳優になって一番大変で、つらかったです。でも、ここで帰ったら負け犬じゃないですか。だから、ミスしようが前に進むという選択肢しか僕にはなかった。だけど、そんな修羅場を越えたことで度胸はつきましたし、ホント、心臓ってこんなにドキドキするのかと初めて思いましたね。だから、幕が下りた後は放心状態で、すぐに荷物をまとめて帰りたかった。つらいことしか思い出せなかったから。ただ、自分としてはベストを尽くしたので、叩かれようが何しようがどっちでもいい、これ以上はできないと最後は開き直りましたよ。

日本ではあそこまで度胸がつくほど恐ろしい体験ってなかったから本当に身になったというか、いい経験をさせてもらいました。恐怖におののくというか、時間よ、止まってくれと思ったのは、『王様と私』だけです。

でも、そういったなかなかできない経験をさせてくれた最初の窓口を作ってくれた謙さんにはすごく感謝してるし、どこの馬の骨ともわからない日本人を呼んでくれた演出家とか、スタッフには感謝しかないです、本当にありがたい。

ターニングポイントって、やっぱりシンドいときのほうが飛躍的にその後成長させてくれるんですよね。そういうつらい状況のときにクサっちゃいけないんだなというのは充分に学習できてるし、そういうときこそチャンスなんだとよくわかりました。シンドいときほど受け入れなきゃいけないし、いいときは調子に乗っちゃいけない。未来を描こうが、目標を定めようが、その通りにいくわけがないんです。でも、それは悪いことじゃないってこともよくわかりました。

<大沢たかお・俳優デビュー25周年で思うこと>ようやく新しいスタートラインに
出典: FASHION BOX

<僕の感覚的には37歳ぐらいだと思ってる>

今回大沢さんが主演する映画 『AI崩壊』は、わずか10年後の未来、2030年が舞台だ。物語は、国家として崩壊寸前の日本で人々の生活に欠かせないライフラインとなっていたAI(人工知能)が突如暴走。暴走させたテロリストの濡れ衣を着せられた、大沢さん演じるAIの開発者である天才科学者・桐生が極限状態の中でどう立ち向かっていくかが描かれている。絵空事ではない圧倒的なリアリティが観る者の胸をえぐる大作である。

僕がこの作品への出演を快諾したのもやはり夢物語ではないと思ったからです。実際、その前からAIに興味があって本を読んだり、人に話を聞いたりしていて、想像を絶するようなパニックとか事件、事故が起きるかもしれないなあと思っていたんですよね。この作品は医療現場が中心ですけど、例えば日本の為替とか株とかだってドンドンAIがコントロールをしていくようになると、誰かのちょっとした操作で大暴落とか全然あり得るわけです。台本を読んでもAIに関しては様々な専門家の方たちにしっかり取材をした上で作り上げているので、地に足のついた近未来映画、起こりうるパニック映画になればいいなと思います。

おそらく僕らの世代から人生100年時代になる可能性って大きいと思うんです。60を過ぎたらゆっくりするのが世の中の在り方みたいなのはもうナンセンスな気がするし、定年とか早期退職とかいう昔の感覚も僕はもうないと思っていて、セカンドキャリア、サードキャリア、フォースキャリアがあってもいいと思ってます。50でビジネスを始めてもいいし、もっと言うと70で新しいことをやりたいならやればいい。なんたってまだまだエネルギーがある年代じゃないですか。病気のリスクはあるけど、例えば再生医療とか治せる治療法もいっぱい出てきているので、もっともっと楽しんだり、トライすることがあっていいと思うんです。40代半ばぐらいからみんな焦り出して、「どうなんだろう、俺の人生」みたいなことを言うけれど、まだ道半ばでも全然いいわけで、僕なんか感覚的に年齢は37歳ぐらいだと思ってますから。

俳優としては充分ベストを尽くしているから、こういう俳優になりたいというのはないです。だけど、人間として理想の自分像にはきっと到達しないで終わるんじゃないかなあ。ただ、2018年ぐらいから自分の本当にやりたいことだけやれるようになってきたので俳優としては25年経ってようやく新しいスタートラインに立てたかな、と。僕の一番の強みは“人の縁”だと思っているので、これからも人の縁で一生懸命、誠実にやっていければいいと思っています。

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【PROFILE】

大沢たかおさん

1968年、東京都生まれ。ファッション誌でモデルとして活動後、俳優に転向。ドラマ『星の金貨』でブレイクし、主演を務めた映画『解夏』で、『第28回日本アカデミー賞』優秀主演男優賞を受賞。実力派俳優として数多くの映画やドラマ、舞台に出演する。

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取材・文/大西展子
撮影/宅間國博
スタイリング/黒田 領
ヘア&メイク/松本あきお(beautiful ambition)
MonoMaster 2020年2月号
WEB編集/FASHION BOX
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